2012-03-16 第180回国会 衆議院 文部科学委員会 第2号
それから、論語などの四書五経につきましては、中学校社会科の歴史的な分野というところで、中国文明を取り扱う中で孔子や儒教が教科書に記載されているほか、高等学校世界史あるいは倫理等におきまして、先人の思想を学習する中で四書五経の構成や儒教の思想の内容が教科書に取り上げられている。また、万葉集についても、和歌などが国語の教科書などで引用されているというのが実態であろうかと思います。
それから、論語などの四書五経につきましては、中学校社会科の歴史的な分野というところで、中国文明を取り扱う中で孔子や儒教が教科書に記載されているほか、高等学校世界史あるいは倫理等におきまして、先人の思想を学習する中で四書五経の構成や儒教の思想の内容が教科書に取り上げられている。また、万葉集についても、和歌などが国語の教科書などで引用されているというのが実態であろうかと思います。
ちなみに、ハンチントン自身は「文明の衝突」の日本語版への序文で、日本文明は基本的に中国文明と異なる、日本文明は西洋文明と異なったままである、日本は近代化したが、西欧にはならなかったというふうに記しています。 一衣帯水、同種同文などの表現で日本と中国あるいは韓国が安易に一体化できると思うのは幻想であると存じます。
ともあれ、現代中国文明は近代日本文明がつくり上げた側面があると。それは実は留学生によって果たされたと。
特に、中国文明、ロシア文明、インド文明、それからイスラム文明、こう言われるところはもう過去の歴史からしても破壊と建設ということがずっと繰り返されて、結果的にですけれども、ある意味では、独裁または専制政治と、支配者とその他大勢という、これがずっと繰り返されている地域だ、こういうことであります。
現在、我々は、東アジアという言葉でほとんど何の恐らく疑問もなく、日本、朝鮮半島から中国、台湾、東南アジア、この地域を指して東アジアという言葉を使っておりますけれども、つい一昔前には、東アジアと申しますと、これは例えば中国文明圏のことであったり、あるいはもっと狭く、韓国それから中国、場合によったらあと日本、台湾それからベトナム、この辺を指して言われた言葉でございます。
しかし、日本社会は歴史的に閉ざされ、静止した社会ではなく、中国文明、西欧文明、米国文明などの影響を色濃く受けてきておりますし、海外から人の流入もあります。私は、むしろ異文化の受容という点では日本社会は特に際立った寛容さを示してきたと考えます。 今後、グローバリゼーションが更に進めば、外国文化や外国人は今後ますます日本社会へ流入するでしょう。近年、外国人と結婚する日本人の数は急増しています。
ローマ帝国のローマ文明にせよ、イスラム文明にせよ、中国文明にせよ、そういうものなんですけれども、日本は日本人だけでできた日本文化を基礎にしたまとまりですので、文明と言いにくい面があります。 しかし、イスラム圏になりますと、これはもう完全に文明でして、地域や民族を超えた共通の考え方や行動様式を持っています。
大陸の外縁に位置する島国の宿命から、古来日本人が外国文化の受容に寛容だったために、私たち日本人は、ともすれば中国文明や西欧文明に劣等意識を持つという文化的な性癖を持ちます。私たち日本人は、ブルーノ・タウトに桂離宮の美を指摘されなければそのすばらしさがわからない、欧米人が評価しなければ浮世絵も包み紙として散逸させてしまったかもしれない、情けないところのある国民であるようです。
したがいまして、京都という、中国文明を十分に入れ切った上で、今度は、新天地、この関東平野に日本独自の脱中国をした形の国の形をつくり上げた。その代表、象徴が江戸であったと存じます。
その私が河野大臣からお伺いした、直接はお伺いしておりませんけれども、根底にはやっぱり日本の歴史、伝統、文化の中でイスラムとの直接のかかわりというのは、ほかの文明、例えば中国文明とかあるいは西洋文明に比べて、国民レベルも含めるといささか少ないというところがあるんじゃないかと思います。
我が国の例を引くまでもなく、エジプト文明、ギリシャ文明、メソポタミア文明、インド文明、中国文明、すべて森が川をつくり、そして平野をつくり、海をつくり、その森林が消えていくと、それぞれの地域で文明が消えていったわけであります。我が国も、森林面積が日本の国土の三分の二もある、七〇%もあるということだけで安心することなしに、もっときれいな森林を守るために努力すべきではないかと私は思います。
元号というものを使うことについて、これが中国文明の模倣であることは間違いないけれども、中国の元号を頑として使わないということを、大化の改新の大化元年以来使って平成の今日に至るまで使い続けているというのも日本一国でございまして、新羅はその段階で早くも唐の元号を使うことを強制されて、それに屈服しているのであります。
つまり、現行憲法を修正して明治憲法へ戻るという話では全くなくて、日本国家が本来七世紀以来孜々として築き上げてきた、西洋でもないし中国文明にも隷属していなかったというこの独自性を、日本の宗教、芸術、文化、教育、ありとあらゆる観点から日本人とは何かというものにさかのぼって、きちんとした新しい憲法をつくるのが本来の筋であろうかと思っております。
これは結局、日本というのは西欧文明の側に立つのか、中国文明の側に立つのか、そこが非常に微妙だというふうに考えております。そして、もしも文明間の衝突が生ずれば、強きにつく日本は今度は中国につくだろうということを言っているのですね。
今のこととも関連するのですけれども、先ほど先生が、ハンテントン氏の主張といいますか著書の中からのエッセンスとして、二〇一〇年に、蓋然性は低いけれども可能性は高いということで、いわば西欧文明対中国文明の対決というふうな可能性、いわゆるアメリカと漢民族との衝突、それに日本とのかかわり、そういうふうなことをハンテントン氏が指摘しているというお話がございましたけれども、私はこの場面で非常に大事なのは、中国という
先ほど来の先生のお話を聞いていますと、中国文明のそういう部分もひっくるめた大きい意味の台頭というものを安易に考えちゃいけないということをおっしゃっているような気がいたしましたけれども、従来から、あらゆる部分でいわゆるフランスと中国の中華思想というんでしょうか、アングロサクソンに対して対抗する、そういう意識の強いお国柄もあって、そういうフランスが目指す第三の道、これはもうほとんど問題にならないというような
飯田先生はお考えになって、さっきインドネシアの例なんかもお触れになりましたけれども、どうもいわゆる中国文明圏からはちょっと外れたところにあるフィリピンにしてもマレーシアにしても、あるいはインドネシアにしても、ああいうところについて安心してというか、楽観的でおられるのかどうか。ちょっと違うんじゃないかと。じゃ、インド亜大陸はどうですかと。
先生の文明論をお聞きしたいんですけれども、古来エジプト文明にしても中国文明にしても、エーゲ海沿岸の文明にしても、人間が集まってそこに文明が起こったわけですから、集中そのものを排除すべきではないと思いますね。集中はある程度これはやむを得ないというか、その利点は大いに発揮していくべきであると思います。
まあ遠いところよりも近くでもって貿易をすることが望ましいことでございますし、やっぱり外国で、ヨーロッパ文明の中でつくったものよりも、日本は中国文明の中に今日があるのでございますから、要すれば一番中国式である、こういうことだと思うのです。そういう意味で、これからも努力をしていくことによって日中間の貿易は拡大一途をたどる、こういうことでございます。 〔進藤委員長代理退席、委員長着席〕
中国の中心は歴史的に見て古代中国文明の発祥たる黄河流域、近代文化を開花させたる揚子江流域である。かりに揚子江を境にして二つの政府があるならば、これは分裂国家といい得るであろうが、中国と台湾は分裂国家でなく、台湾は中国の一部であり、旧領土である。此の点佐藤首相の国連演説の分裂国家という表現の中に含まれておることには同意し難い。
この博覧会の趣旨から申しますと、中国文明をわれわれは見のがすことは絶対できないと思うのでありますけれども、しかし何の準備もなしに中国を招待するということがはたして博覧会を成功させるかどうか、それまでの準備工作というもの、つまりほんとうの調和、博覧会においても調和がとれるという段階まで持ってこなければならないのではないかと私は思います。ですからそういう点は私ども具体的にはよくわかりません。
○田中(六)委員 アンコールワットなどの写真の拡大を展示したいという御希望のようでございますが、今度の万国博は、アジアでは百年間くらいの間に初めての博覧会でございますし、多様性というような点から、アジアの特殊性というものを出す一つの考え方としてアンコールワットが出ておると思うのですが、アジアといいますと、やはり中国文明というものが大きく代表されると思うのです。
○茅参考人 たいへんデリケートな問題で、私、どうお答えしていいか実はいまちょっと迷っておるのですが、問題は確かにいまおっしゃいますように、中国文明ということを抜きにしてアジアの文明を論議することはできない、この点はおっしゃるとおりだと私は思います。しかしたとえばアンコールワットの写真をどこの国が展示するかというと、それを日本が展示するのはまずいと思うのでございます。